福井市の戦国大名朝倉氏の城下町「一乗谷朝倉氏遺跡」西山光照寺跡に石仏群がある。40体ほどの仏像が並んでいる。
一乗谷は福井市から10kmほど離れた所で、JR福井駅から15分程で一乗谷駅へ。
奥行き1.7kmの小さな谷の中に当時は1万人が暮らしていて、谷の一番狭い所2カ所を巨大な岩の門で締め切っていた。
一乗谷が凄いのは、戦国時代だのにインフラが整備された先進都市だったと言うこと。庶民の家 一軒一軒にトイレと井戸があったのだ。
何度も行ったのに、写真をあまり撮ってないのが残念
この地は、織田信長に攻め込まれ、跡形も無く焼き尽くされ、驚くのはその上に土を何メートルも被されていたそうだ。そのおかげで昭和後期の発掘調査まで約400年間も城下町が地中に埋もれていた。それ故に「日本のポンペイ」と呼ばれる。
昭和後期に仏像も発掘され、今の状態に並べられたが、その中で一番人気が2.6mの不動明王の横に立つ「制多迦童子」(せいたかどうじ) 室町時代後期の仏像である。
なんと愛らしい、可愛らしい仏像だろうか
そう思うのはワタシだけかも(笑)
この後の拓本を見れば、きっと皆んな、魅了されるはず(勝手な思い込み)
ここの制多迦童子(せいたかどうじ)はよそのに比べてヤンチャ坊主風で躍動感に溢れ、目つきもなかなかのものである。
本来は不動明王の両隣に脇士として矜羯羅童子(こんがらどうじ)・制吒迦童子(せいたかどうじ)が祀られるのだが、矜羯羅童子は居ない。戦さの最中に行方不明になったのだろう。
何故いきなり仏像の話がブログに出てくるのだ……と思うよね
実はこの制吒迦童子の拓本が我が家にあるのだ。そしてワタシは福井生まれ。
何十年も前に親がこの拓本を作り、ずっと見てきた。今は我が家のシンボル。実際の仏像より、拓本は可愛らしく出来上がっている。和紙の凹凸の加減だろう
拓本を知らない人は心配するだろうから、ここでプチ説明
魚拓は魚に墨を付けて和紙を貼る
恐れ多くも仏像にそんな事はしない、濡らした和紙を仏像になでつけ柔らかい刷毛で凹凸を拾っていく。あと上から墨で写していく。
老朽化した石碑など字が見えにくくなってきてるので、拓本の許可が出ない事も多い
雄々しい拓本が制吒迦童子
慈愛に満ちた拓本は如意輪観音
これは一乗谷ではなく長野県の山形村
この2つが我が家のバランスを上手く取っている
仏像の拓本ではあっても、仏像では無いので手を合わすことはしない。絵画の体で飾っているが、見るだけで心が癒される。
親が亡くなった後、相当数の拓本が残されたので展示会をして、欲しい方に差し上げた。何人もの方から売って欲しいと言われたこの二点は手放さず、いま我が家に鎮座しておられる
ワインとオープナーの写真をブログに載せたところ、背後の拓本について聞かれたので、この機会に拓本を紹介。拓本の写真がまだまだ沢山あるので、ブログに記録していこう。
また一乗谷に行ってみたくなった。
山深く天然の要塞であり、華やかな京文化が開花したので町の区画も整然として
町並みを再現しているエリアは見るだけで驚くこと間違いなし。町中は武家と商家が同じ地域にある画期的な配置だとガイドに聞いた。
福井に行けば、大根おろしと鰹節の「おろし蕎麦」を食べたいものだ。
ほかに「ニシン蕎麦」も有名
「ヨーロッパ軒のヒレカツ」食べたい……
「甘エビ」食べたい……
出てくる、出てくる故郷の懐かしさが。